荏田南5丁目みずきが丘集会所にて20210821 michko
この日の参加者の聞き取りnoteのパッチワークです。
1. 野島弥生
青木氏の実家が荏田の現在の地にいつからすみ始めたかははっきりしない。
江戸時代に作られた荏田村絵図(写真)、山が目立つ、道、畑、民家
。金子嘉延所蔵文書。
1804~30年頃 162軒
明治31年には陸軍が制正確な地図制作している。
先祖の仕事は農民。
壬申戸籍(干支のみずのへさるの年に作られた)明治政府による最初の全国的な戸籍、明治5年(1872年)によれば荏田の人はほぼ全員百姓。この地は旗本領地だったが、寺領地だつたため、助郷(必要な時村人に課される労働)はなかった。信田日記によれば村人の生活は自由であった。
青木氏の祖先は江戸へ薪炭や柿を売りに行った。
ある時?商売相手から不動尊を譲られた?青木氏はなぜか、不純な動機からもらったと言う。
(このあたりは大事なところなのだが、質問する間もなく通過)
古文書宝暦5年(1755年)の年貢を決定するための書類には、御先祖の名前が、まさえもん、まさきちと記されている。
当時、上民(名主階級)の人びとは、たしなみとして、文字手習い、俳句、生け花などの教養は必須だったのだろう。青木氏は父が花を生けていたのをよく覚えている。俳句を詠むこともあった。
土地利用は、7割が山林、楢、クルミ、落葉広葉樹。あとの3割が畑と水田だった。
不動明王がまつられていたところは、青木家が購入した山で証文が残っている。他にも土地を買っている。
良い茅の採れる茅場も買った。屋根をふくのに必要だったのでカヤはよく売れた。
折田公園の外れにある巨木は相当古い。(何の木?)
昭和33年の狩野川台風では山崩れがあった。
現在の地形はかなり人工的に変えられている。荏田高校周辺は20mの埋め立て地。
柚木権現谷戸は今ものこっている。
野島弥生 続き
これは野島の聞き書きメモなので適当に読み飛ばしてください。
青木さんは、70代前半、穏やかな語り口でお話は進みました。由緒あるご家族の一員をかんじさせます。語り口がどこかで、耳にしたような?と思ったら、学生時代は落研で活躍されたようです。確かに、話題が変ときに「さて」とか「そうこうするうちに、、」などという言葉が入るところが、落語家だ。
そうそう、肝心のお不動さまですが、毎月28日、朝6時からご開朝です。
不動明王は大日如来の化身で、いろいろな宗派に信仰されています。人びとの
こころの拠り所だったことでしょう。
荏田には天災、大火もありました。
日露戦争の頃大火事があり、復興しようにも男たちは出征中。そこで福島県檜枝岐村の大工たちが助っ人に来たなどということもあったそうです。
大山街道沿いの荏田宿。
雨乞い、火伏せの信仰は重要でした。
道子さんの感想、「雨乞い」大山阿夫利神社に水とこちらの水を混ぜると雨が降る。私も印象に残りました。by noj
2. 福井つや子
明治31年、陸軍の人測図(人が歩いて書いた地図)は正確とのこと。
鶴見区の関口日記(天保15年)に名主の暮らしとして、たしなみの事が記してある。
荏田、川和町、たまプラーザ、?
は旗本領では無く化粧領地だったので、年貢等に関し余り厳しく無かったと。
不動尊を祀る経緯は
落葉広葉樹を焼いて薪炭を作り、江戸(世田谷)で売っていた。他に禅寺丸柿、筍等
炭焼は渋沢、文教堂(現在薬屋)辺りで焼いていた。
不動尊は薪や炭の掛売りの担保の形として貰い受けたとのこと。
なので純粋に不動尊を信じてといったものでは無く、動機は不純です。と正直に仰ってました。
劔神社のこと。
これは大橋ちゃんが知っています。
神楽は大晦日に境内の小さな能楽堂?で数年前迄舞っていたそうです。今は後継者居らずやっていません。by fuku
3. 江幡千代子
「村絵図」
陸軍人測図は明治37年で、薩摩と官軍が戦ったので地図を作った。
荏田は、芝増上寺の御霊やで寺領なので年貢はキツくなかった。
雨乞いは、道子さんが書いてる通りで、大山の水をもらってきて「矢先」の水を混ぜて早淵川に流した。
藁で作った大蛇も泳がせた。
「講」:宗教団体
富士講、大山講、三峰講など。富士信仰はよみがえりの信仰。
荏田と川和の喧嘩の場が今の見花山
昭和14年4月1日(喧嘩の日?)
入会地(荏田全体の分け地)の「泉田向」は荏田の水源だった。
不動明王について
「倶利伽羅不動」
明治期神社、権現神社、タカギ神社が合祀。剣神社は残ったが現在の神社は、鳥居、石碑がなくなり、土がコンクリートになった。大正4年に植えた桜の木が伐られた。l
ニュータウンになって。
せせらぎ公園の古民家の竈を土、藁、塩で作った。
よかったことは、災害がなく、本屋、大学ができたこと。
あくまでもメモメモ。
松澤土木、中山恒三郎氏の名前も上がりましたね。by eba
4. 大橋明美
お不動様の事まとめてみました。
青木家のご先祖様はいつ頃から柚木谷戸に棲みはじめたんですか→青木家に残っている古文書をもってきてくれましたね。納税の台帳となる<「御水帳之写」宝暦九巳卯>と書かれていました。1759年以前には住んでいたことがわかりました。
お不動様がどんな経緯で青木家にやって来たのでしょうか→不純な気持ちですと言っていました。きっと信仰心から手に入れたのではないからそう表現したのだと思います。江戸時代に青木家のご先祖様が新薪売りに行ったが相手がつぶれてしまい、お金の代わりにお不動尊もらってきたと「都筑の民族」の本に書かれています。
お祀りは、5月7月9月谷戸の人達が2.5間×2.5間(12畳)のお不動様のお堂で不動真言を唱えた。雨乞もし、それでも雨が降らなければ大山阿夫利神社に参詣して御水をもらってきて谷戸の水と混ぜると雨が降ってきたとのこと。
NT 開発で不動尊をお祀りしていたお山は横浜市の折田不動公園となり、公の場には宗教は持ち込めなくなり、青木家の敷地移動したそうです。
青木氏のお話の中に、鎌倉道の中道が近くを通っていたという、荏田の総鎮守の剣神社の伝説のお話もありました。境内の石碑に剣神社の由緒と伝説が書かれています。by ake
ぬ
5. 杉原陽子
江幡さん、大橋さん、素晴らしいリポートありがとうございます😊
いろいろはっきりしてきました…面白いですね!
他のお話
▪川和町、信田家のこと
江戸時代、名主を努めていて毎日の天候や仕事、農作業を記された資料が残っている。
どうやら楽しみもあったようで箱根温泉旅行に行ったこと等も書き残してある。
青木氏のおはなし?
旅とは、他人の竈で煮炊きをするので他火という…とか
▪荏田小学校には、出羽三山詣りの形跡があるそうです。bysugi