開催日:2020年10月7日 場所:E邸 記録:黒沼

ゲスト:川手先生
参加者:江幡ち、江幡まさ、白川、木下、内藤、大橋、草間、杉原、黒沼
 


コロナ禍にあって外出自粛の空気の中、束の間の自由を感じられる場所が緑道。
そんな緑道が身近にある私たち都筑区住民はなんて幸せなのだろうという思い、実際に緑道を歩いてこんな素敵な風景があったと交換し合う内に、人それぞれに感動する視点が違うことの面白さ。そんなことから緑道への関心がぐぐぐっと膨らみ、この緑道についてもっと知りたい「欲」が抑えられなくなったのが川手塾実現の始まりです。早速江幡さんが、つづき交流ステーション所属「ひと訪問」コーナーの取材を担当している白川さんに相談。川手先生の取材を2013年にし面識があることから連絡を取ってくださり、川手先生の快諾で、この日E邸に10名・2時間限定・感染症対策をしっかり、でメンバーが集まりました。
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川手先生だけでなくメンバー同士も初対面の方が多かったので、まず初めに自己紹介の時間。
お題として、都筑にいつ来たか、都筑の気に入っているところ、今日聞きたいと思うことの3点。
お互いに顔見知りになったところで、いよいよ川手塾が始まりました。


川手塾、スタート!

川手先生と港北ニュータウン。港北ニュータウン計画当初は、たまプラーザに住み港北NTエリアに通勤のスタイル。港北ニュータウンの計画目処がたったところで、筑波大の教授として呼ばれて筑波へ移住。定年後に都筑に戻り、現在も川手先生は都筑区住民として奥様と緑道は毎日お散歩される日々です

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◆開発計画の始まり~"住民参加の都市計画"とは
飛鳥田市長から「住民参加の都市計画をする」ように言われていたので“住民参加とはなんだろう”と、まず勉強をした。 アメリカの例で、小学校を作ろうという時は全州の小学校から意見を聞いた、というのがあったので、「区画整理をするにあたり対象の人から直接意見を聞こう」と思った。核になる人(地主)が農家にいたので、『緑道を作りたいのだけど、どの辺にしますか?』などとまずは地主に聞いて、各部落で説明会を開くという感じ。それまでのニュータウン開発では、公団が勝手に全部決めていたのだけれど、港北ニュータウンの開発計画は地主全員の意見が入っていると言える。最初は反対も多かったけれど、説明会を重ねることで概ね賛成する声も大きくなって開発計画が現実化していった。

住民代表4名(建設対策委員会に参加した町内会代表500-600名から、連合町内会を作ってもらい、それをさらに組織化して4区に分けた)+横浜市(飛鳥田市長)+日本住宅公団(川手さん)の6人で骨組みとなる組織「港北ニュータウン開発対策協議会(略:対策協)」が発足。以降は、この対策協をトップにした組織体制で住民説明会や区画整理・宅地買収が行われる。地主は比較的温厚だったが、ニュータウン開発発表後に土地を買い移住した小規模宅地の人たちは反対意見が特に多く(地主同様の減簿はたまらない)、「小規模宅地の会」を結成して意見交換が激しく行われた。新しい街は自分たちで設計したい、
自分たちの地区を先にやってくれ、などの希望もあった。


港北ニュータウンの地盤の話
横浜北部は元々の地盤も良い土地。土が硬い(ほぐすと大きくなる)。
横浜北部は谷(やと)の多い地域。谷間の部分を埋める造成も多かった。
土を入れた後は3~4年土地が沈むのを待ってから検査、調査の上、15m土を乗せてブルドーザーで固めて地山と同じ高さにする造成法を繰り返した。しかも山ごとに実験を行なっている。
港北ニュータウンでは山津波は起きないはず。 山津波は造成を急いだところに起きるものなので。
(港北ニュータウン計画地から外れてしまった、東山田〜日吉エリアの造成地は弱い) 

 
緑道に流れるせせらぎの話
緑道は開発前の谷戸部分を利用している。緑道に沿った「水」を考えた。最初は全てをポンプアップする予定だったが、雨水(地下水)を利用しても確実に一定量の水が出ることが分かったので、「雨水→地下水→緑道に流す」という計画をベースに、エリア・池によって色々な水の流し方が工夫されている。
*この話のあと意識して緑道を歩くと、ポンプアップ用の機械や越流艇などのせせらぎを維持するための装置が、緑道の中にまるでオブジェの如くさりげなく配されていることに感動する。

例えば、山崎公園(くさぶえのみち、中川駅)。
山崎公園はポンプアップ。水源として井戸水を掘ろうかと計画したが、他の井戸が下がる問題が。それなら水道水を流そうかと実験。問題なかったのでカルキを抜く装置を作り、その上にプールを作った。プール下に沈澱層を入れ、そのうわずみをせせらぎとして流している。 

 
豪華に使われている建材の裏に、歴史あり
ニュータウン開発当時は、日米経済摩擦の時代。アメリカの圧力に対して、日本の中でお金を使うからこれ以上の圧力は勘弁してというのが政治の方向。その恩恵で、日本の中でうんとお金を使う場所がなかったために、多額の予算申請をしてもどんどんお金が出た時代だった。 葛が谷公園の大石。八幡山公園にあるイタリアから来た大理石。ふじやとのみちの福島県の青鍋石を使った干支のオブジェ・・・。

建材だけではない。長い緑道を歩いていても飽きない秘密は、エリアごとに緑道の表情が全然違う。そこにも、当時の時代に絡む面白い話がある。


緑道のランドスケープデザインは、若手の設計家たちに競わせた!
ともかく予算のある時代だった。そこで、首都圏の一流設計事務所に片っ端に電話をかけて、若手でやる気のある設計士を集めた。まず鴨池の先にあるまんまる公園の上にみんなを登らせて、そこから緑道を含め景色を眺めさせ、自由に緑道を設計させた。好きなところを、好きなように。最初にやってきた若者たちは7名。やがて20〜30代を中心に、50名近くの若手設計士が集まった。
千葉大造園出身のランドスケープアーキテクトである上野泰氏を招き(公団事務所内にデザイン事務所を設置し、上野氏には普段はご自身の仕事をしてもらう)、自由に設計させたものをいつでも上野さんに見てもらえる環境を作った。事務所はわんわんと楽しい雰囲気。製図版を6つ置き、一つの製図版に公団職員一人と設計士たち。いいのができたら使うから、という言葉で、みんなが盗み合い、競い合い、学び合い、ともかくおもしろかった。よければ採用、NGだったとしても広々と製図版が使え上野先生に見てもらえてよかったね、というのは、若い設計士たちにとって楽しかったはず。

そうやって、エリアごとの担当という形で複数の設計家がデザインしたために、散歩をしていて様々な表情のある緑道が出来上がった。そして、全体に統一感があるのは上野氏が総監修されたから。 例えば、橋は2つの石を組み合わせること、など。


◆ 港北ニュータウン全体の設計は?
田村明氏によるもの。田村氏は丹下健三に師事した地域政策プランナーで、飛鳥田市長に誘われて横浜市役所企画調整室企画調整局長を務めた人。田村さんの中にある都市の構想と、公団で描く構想がぶつかることは多く、その度に部下がくるだけ、あるいは川手先生は何度も横浜まで出向いて話し合いをした。例えば、「区役所通りは真っ直ぐであるべき」「早渕川沿いは公園に」「せせらぎは畑にしろ(!つまり、今せせらぎに水が通っているのは川手先生が議論で説き伏せたため!)」など。

センター南駅周辺の歩車分離が徹底されたダイナミックな景観は、アメリカでアーバンデザインを学んだ人が設計した。横浜市内の全区役所の中で、駅から区役所まで信号がひとつもなく行けるのは都筑区だけである。


 
◆ 区画整理はどのように?
公共用地確保のために35%の減歩に協力してもらう。そうやって手に入れた公共用地は、道路・学校・公園にまず使い、残ったところを宅地として配布する。その際、喧嘩にならないように公団が決める、というのが通常の方法。港北ニュータウンでは、公団がそれを勝手に決めないことを徹底し、申出換地をして、住民に自分たちで住みたい場所の希望を出してもらい抽選など公平な形で決めていった。この方法は日本初だった。

長期信用銀行にいた日下公人調整役に大金を出して来てもらい、土地価格の見直しや土地の容積率を決めるアドバイスをもらい、申出者たちが揉めることのないように注意を払った。

また、小規模宅地の住民向けに買い増しの提案も。無金利の融資プランを用意して、土地を追加購入させるというもの。

地主・農家・移住者と、異なる様々な背景を持っていたので、それぞれの立場での意見をよく集めて、納得してもらえる方法を模索し「住民参加の都市計画」となる努力をした。


 ◆ “ニュータウン”といえども...いろいろ
1950年代〜80年代にかけてのかつてのニュータウンは、国や地方自治体が起案して自らデベロッパーになっているものが主流だったため総務省の中に首都圏計画を推進する組織があった。組織改革でそれがなくなって「ニュータウン」という名前がなんとなく宙に浮いてくると、建設省が「総戸数が50戸以上になったものをニュータウンと呼ぶ」と新しく定義した。これにより、そもそものニュータウンとは規模も目的も全く異なるニュータウンが次々に生まれていき(例えば民間不動産デベロッパー開発のもので、総戸数50戸ほどでも響きが良いので「〜ニュータウン」と命名するなど)、都市の郊外に全周囲を緑地でぐるりと囲まれた中に開発されるニュータウンというものは開発されていない。
特に、橋本政権行政改革以降の官→民間事業化により政府はニュータウン開発からは一切手を引いている。


 ◆ 港北ニュータウンの、港北ニュータウンらしい景観が崩れつつあること(質疑応答)
近年横浜市内で多見されるナラ枯れ現象は、緑道や保存緑地内でも問題になっている。 他にもニュータウンの景観に対する考えへの理解が少ない利益重視民間デベロッパーによる周囲景観とのバランスを考えない宅地開発、かつては車が入れないように設計されていた場所への車の侵入問題など、港北ニュータウンの良さが少しずつ崩れつつある現状について、川手先生はどうお考えですか?

 「景観法」を使うといい。景観法の内容は市長が決めるが、景観計画の内容を決める人がいないので、みんなで「景観協議会」を作り、決めて陳情、区長に認めてもらうこと。ここは守りたいという計画を描いてみてはどうでしょうか。


おわりに...
初めて聞く話、固有名詞、メモを取るのに必死なままあっという間に2時間が終わりました。
すごく深い深い秘密を手にしてしまったような、でも難しすぎて情報が多すぎて噛み砕けていないような。それでも質疑応答の時の川手先生の「みんなで景観協議会を作って、みんなが動けばいいんですよ」の一言の威力は大きくて、今日会ったばかりの10名なのに、みんなで港北ニュータウンのために何かをしたいという積極的な思いの卵がポンと生まれたような終わりでした。

おわりに、今日の感想をみんな提出しましょうという課題。こちらは、つづき交流ステーションの「区民レポーターが行く」コーナーに、レポートとして掲載されています。
ニュータウンの景観を守りたい!<川手先生を囲む会>』 

そう、川手先生を囲んでお話を一度伺ってみたいだけだったはずの会が...景観を守りたい、魅力を伝えたい、何ができるか、名前を改めて"川手塾"を今後も続けてもらいたい、 緑道マップを作ってはどうか、私たちも仲間になろう。そして、緑道ハレバレ会となりました。